2018年5月 9日 (水)

マザーディヴァイン・プージャー

プージャではなくプージャーなんだそうである(伊藤武先生のブログ記事より)
ヨガではなくヨーガ。ヨギニではなくヨーギニー。アサナではなくアーサナ。アナンダではなくアーナンダ、、
伸ばすか伸ばさないかで意味が違ってきてしまうのがサンスクリット語。

英語を介して靴の上から痒いところを掻くようなのではなく、だれしもサンスクリット語からヨーガを学べられる素晴らしい時代が到来している。
(興味ある方は伊藤武先生主催のYaj サンスクリット語講座で検索 )

それはさておき、、
いつから毎朝プージャーをやり始めたんだっけ?と記憶を辿ったら昨年末、親知らずが痛くなり、近所の歯医者で速攻で抜きます、と宣告されたのに慄き、無理矢理抜かなくても済むように、神頼みで始めたのを思い出した。

人は心身の苦痛に会い、ピンチにたつと藁をも掴む思いになるものだ。(親知らずくらいで大げさな、、と思われるのは承知だが)

基本的には日の出のアグニホートラ後にやるのだが、朝行うことで一日じゅうマザーディヴァインに守られてると実感できる。

朝できなかった時は一日の報告兼ねて夜にやる。
親知らず以来5ヶ月、ほぼ毎朝プージャーをやっていることになる。

それまでは仕事上の義務と責任感から、あくまで製品の浄化と依頼者へのご祈願のために、たまに納品時にやっていたのだった。
しかし他でもない自分の為に、積極的に恩寵を要請するのだ。
以前、アグニホートラができるように、日の出前に起きれるよう、これまた藁にもすがる思いでディークシャしまくって実現した経緯がある。この時初めて自分にやったのだった。
己の必死なる思いが1番わかるのは当然自分なのだ。人に頼むより自分でやったほうが手っ取り早く、お金もかからない。
必要なのは続ける熱意のみだ。

実際にやってみると、明らかによい影響がある。親知らずの痛みと恐怖以外にも生きていれば、生きるのが嫌になるようなことはやってくる。
となるとこれはやらなきゃ損だと思うようになった。
人に言ったらバカバカしいと笑われるくらい単純なこと、ヨーガでも何でも秘教と呼ばれるものは、笑われたりバカにされたりするのを防ぐために内密に秘儀として隠してるんじゃなかろうか。

それにしても幸福は心の持ちようだ。
少しでも楽に生きれるのならプラシーボ効果だっていい。
痛みも大げさに恐怖におののくのと、これも恩寵で軽減されてるのだ、と思うのとでは雲泥の差だ。

続けている理由としては
一つは願望実現やご利益があること。
二つは心の平安を得られること。
三つは祭壇のしつらえなどで芸術心?が生かせること。
四つはヨーガのアーサナもプージャの中でやってしまえること。
五つは 毎日やってると、プージャーにおいて自分でも予測つかない思いつきやひらめきが出て、プージャーが日々改良されていくのが面白いところ。
六つめはこれまで得た知識や学んだことをプージャーのプロセスで試したりより深められること。
7つめは使った聖水の二次利用?でついでに掃除ができること。朝日に反射されながら窓拭きなどしてると主婦である喜びを感じてしまう。
8つめは、日々バージョンしてるおかげで、仕事上のプージャーがスムーズにできることだ。
育てた薔薇をしつらえ、生き物のように祭壇が日々変化するのが面白い。
供え物のお花を採りながら庭仕事もやりつつ、宝石浄化などの仕事ももちろん合わせてできるのは言うまでもなく。

実物の母親が他界してるからこそ、マザーディヴァインとの交流が私には必要だったのだと思う。
もしこれが義務や修行で毎日やれ、となったら絶対嫌だしやらない。アグニホートラしかり、自主的にやってこそ楽しいのだ。
この世において問題の多い、生きづらい自分が、よくプージャーもしないでこれまで生きてきたなと思うくらいだ。30年近く前、癌で母親が急死して以来、母なるものとの交流に飢えていたことが分かった。

薔薇や宝石自体がマザーアースが生み出した最高の芸術品であるが、それらをプージャーの中で讃えることは私の芸術活動であり、母親との交流であり、ロボットではなく人間だからこそできる、満足感と幸福感を味わえる行為だと思う。




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2018年4月16日 (月)

分別と不分別

分別とは
https://dictionary.goo.ne.jp/jn/

>道理をよくわきまえていること。また、物事の善悪・損得などをよく考えること。「分別のないことを言う」「よく分別して態度を決める」

とあるが、仏教で言う「分別」は上にあるような一般的な良い意味合いとは全く反対で迷いと苦悩の根源なのだそうだ。

しかしながら思考は必ず「善悪」「美醜」「甲乙」「好き嫌い」といった、相対的、比較的な判断(ジャッジ)をする。

私たちは常にあれは良い悪いと分別しながら生きている。
こっちの店の方があっちの店より安くて新鮮な物を売っている、など日常生活においては、人様に迷惑をかけないためにもゴミの分別もしかりでマインドをきちんと働かせなければならない。

一方、仏教で言う「無分別」は、真の知恵で、相対的な見方から離れたところでの、覚りの知恵を意味しているんだそうだ。

「あるがまま」を「あるがまま」に分別せずに、、、などと言っても心の働きの性質上、分別しない、なんてことはそもそも人間にはできない。
できないことを目指すからまた苦しくなっては本末転倒だ。

人間は自然に分別するのが本性なのである。いい悪いを判断しなくて許されハッピーなのは赤ちゃんだけだ。
子供はこの世で生きるために親に社会に分別を教えられる。
そうでなければ犯罪者にだってなれるだろう。

私たち人間にできることは、あるがまま、などできないことを目指すのではなく、油断なく【分別している心の働き】に気づいて、それすら受け入れることだ、とブッダは言いたかったのではないだろうか。それなら誰だってできる。

内と外では正反対に使うべき分別を理解していないと、外側では無分別にO教団のごとく殺人をもおかしても正当し、内側では分別して葛藤しまくる、というとんでもないことになる。

自分が苦悩するだけなら、その苦しみから逃れたい、と思うに至れる。
常に泉のごとく湧き出てくる葛藤と言う名のストレスを解消するだけでは人生はもったいない。
と私が思うようになったのも、子供の時から不分別に生きて葛藤しまくりだったおかげ?かもしれない。

みんながやるから自分もやる、というのはできなかった。
ただ単に年取った人を意味もなく形だけ敬う、というのはおかしいと思ったので、表裏ある態度で平静を装いつつ裏では悪口、ということもできず、学校の先生や大人からはことごとく目の敵にされてきた。

少数でも理解してくれる友人がいたのと、中学生のときから沢山アルバイトをして色んな職場で働いてきて、中には面白がってくれる大人がごく少数いたのは助かった。

人間は悟っていない限り、だれしも程度の差はあれ無自覚に外側では不分別、内側ではジャッジしまくってる。

それが苦悩の根源になっているのはブッダの言う通り間違いない。
そんな生き地獄から脱してハッピーに生きるために、外側の分別と内側の不分別を一生かけて開発していきたいと改めて思う。












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2018年4月10日 (火)

好きなことを仕事にしようとはよく聞く言葉だが、作家の中村うさぎさんは、好きなことではなく、得意なことでお金を稼ぎ仕事にすべきと何かで言っていた。
文章を書くのは子供の頃から得意だったけど、取り立てて好きなわけではないそうだ。得意なことだからといって、それをするのが人一倍好きとは限らない。
私も前回書いたが、宝石の仕事を二十年以上やってきて、所謂宝石デザイナーと名乗るのも何か違う気もするが、不思議なくらい揺るぎない信頼がある数少ない得意なことであるのは間違いない。
しかし、本当に好きでお金にならなくともやりたい、それを人様に伝えられるとおもうだけで、胸踊りワクワクしてくるし、苦手なこと、人前に立つことなどのこだわりを超えられるのは、プージャやディークシャ、ヨーガなのである。
これらはビジネスとは相容れないが、単にモノだけ売って金銭は得られても心の喜びと充実感はない。
宝石は美と芸術、エネルギーとヒーリングパワー、アーユルヴェーダにジョーティッシュにヨーガにヒルデガルド的な宝石療法と物質的な、精神的なターミナルになる。
それらと関連づけられるのがいいところだ。
好きで自分のためにもやりたいことを本業ともっと結びつけていけたらと思う。

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