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2011年2月24日 (木)

真に生きるとは?2

 前回、のけぞってしまった、というのも、「ONENESS ON THE EARTH VOL.1」のなかで、カルキバガヴァンは、自分はムクティ(悟り)に関する専門家、テクニシャン(技術者)、マスター、プロフェッショナルであり、優れた指導者であるならば、探求者にまず悟りの状態を与え、それから教えを与えるべきで、もしその意識状態を与えることが出来ないのなら、それに付いて語る権利はない」

と、更に私はこれまで教えを説いてきたマスターと違い、それ(悟り)を簡単に人々に与えることが出来る」と明言、あるいみ豪語?しているのです。

・・・・・、「あなたは決して自分でそこに到達することは出来ません。それは与えられるべきものです。」

この言葉には、う~んそうなのかなあ・・・と考えさせれれました。それは世間では依存というのではないか、やっぱり人間努力も必要じゃないか、長年瞑想や修行をして到達するのではないか?などと当然疑問に思いました。

しかし、当時子育て真っ最中だった私は、この真の意味を少しづつ理解する機会がありました。

周りをみても、賢い親であれば、子供が自分の力でがんばっているときには一切手出しをせず見守っているものです。もし、そんな時に干渉したり、先回りしてなんでも叶えてあげたら、その子供はスポイルされてしまい、何も体験から学べません。時には痛い思いをさせても見守るのが親の愛と言えます。

しかし、本当にその子供が100%お手上げ状態の時には、親は必ずや喜んで助けになり、そのとき、親子間には信頼関係が築かれていくのを見てきました。

「悟りの状態とは、私たちが自力で達成できるものではなく、高次の次元からのハプニングとして与えられるべきものです。人類の歴史の中で、多くの人々が悟りを得てきましたが、その状態を与えられてきただけです。」

とバガヴァンは述べ、ついに2003年8月から、実際にディクシャ(ブレッシング)という手法を提供しだしました。

これは具体的には、ある特別な瞑想に入り、目の前の人物とワンネス(一体化)した状態で頭頂に軽く触れ、(触れずに行なう遠隔方法もありますが)脳の物理的な状態を変化させ、苦しみのマインド(思考、思考パターン 条件付けなど)を超える意識状態に変容させ、日常的に気づきを深めプロセスの扉を開いていく、というインドでは伝統的な方法ですが、私はそれを、にわかに信じることはできませんでした。

当時、先駆けてインドでこの手法を学んできた夫は、本業のインド占星術の鑑定の傍ら、これを広げることを使命として、会を都心で定期的に開き熱心に活動しはじめました。

徐々に東京の一部では有名なヒーラーやヨガの指導者の方々も紹介しだして、ディクシャ・ブームの波が広がっていた時期でした。様々なメディアで紹介され、インドからお弟子さんも来日されてイベントが催されていました。今から丁度5~6年前です。

しかし私は、ムーブメント自体に違和感と、生来のあまのじゃく傾向もあって(笑)、離れて醒めてみていました。夫婦間の温度差が生じ始め、苦しみが募る一方という皮肉な状態でした。

「人間関係の問題は、心理学によって解決することは不可能です。他人を完全に理解しようとするどんな努力も助けになることはありません。・・・・・・・・、分析し、理解しようとしても無意味です。分析は麻痺状態をもたらすだけです。

どんな人も絶えず他の人を理解しようとしたり、分析しようとしたり、ジャッジしようとしています。そんな中で相手を変えようともがいています。

残念なことに相手を変えることが不可能だということに気付いていないのです。・・・・ここで本当に必要なことは相手を体験するということです。」

ワンネスVOL1の32ページから引用です。人間関係を例に、バガヴァンは出来事をそのまま体験する、という人生における究極の方法を解説しています。この本をまだ読んだ事のない方は是非入手できなくなる前に読まれることをお薦めしたいです。(すでに廃版です)

心理学の分析、理解が全くの無意味だ、ということもないと私は思いますが、確かにそれで解決する部分は表面的で、深いレベルで、真の人間関係における愛、調和に至る事は難しいことはイヤと言うほど体験から分かっていました。

無意識に、マインド(思考、思考パターン)が働いて、相手をコントロールしようとしている、もしくはコントロールされまいとしているゲームに私達は常に興じていることに気付けないのです。

このマインドゲームは6つのタイプとして、バガヴァンはさらに詳細に解説しています。また機会をあらためて紹介したいと思いますが、これに気付くことができれけば、人間関係という繊細な織物にできたほころびを、それ以上広げることなく、最小限度に留めて修復していく方向にマインドを有効利用していく、ということです。

自分の体験として、今でも鮮明に覚えていることがあります。

あるとき、いつものように夫と何かで口論していました。いつも私は心の中で夫をジャッジし、非難し、いかに自分が正しいか、傷ついたか、ということをアピールし、謝らせてエゴを満足させようとするのですが、その時、突然、突如として、夫の感情がそのまま私の感情になりました。

これは劇的な体験で、私は何が起こったのがわからなかったのですが、唯一つ確かなのは、それ以上夫を責めることは、口論を続けることは不可能になったのです。

なぜなら、夫=私でそれは完全に同一化しているため、夫の悲しみは自分のそれなのでそれ以上自分を傷つけることは不可能になったのです。それは何度も何度も(多分前世を通して)繰り返されてきた事だと思います。

これは、まさにこの、相手を理解しようとしたり、分析しようとするのではなく、相手を体験する、ということがハプニングとして起こった瞬間でした。このワンネスの一瞥はありましたが、存在の苦しみ、と言われる究極の虚しさ、悲しみがものごころついた時からずっと私の人生の根底に流れていて、この流れを「見る」に至るにはまだ、何年もの時間がかかるのでした。

また次回に続きたいと思います。

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