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2012年12月22日 (土)

シトリントパーズ/オーダー品&アクセサリーについての考察

 

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             シトリントパーズ/k18ペンダントトップ M様 

 

 着こなし上手といわれる人が、三つの要素(布・金属・皮や光沢のある人工素材など)の中で一番重要視するのが、実はアクセサリーの部分なのである。アクセサリーは様々な素材でできているが、主たるものは金属である。金属は文字通り光るもの、いや光そのもののような素材である。この光を加えることによって、布はまるで質感を変えてしまう。空にまで舞い上がるような軽さを持ち、洋服は本来の美しさになるのである。

 ベルトやハンドバックはいわば実用品といえるだろう。その点、アクセサリーに実用感はないが、アクセサリーの全くついていない洋装は、調味料のない料理と同様、なんとも大味でうまみがない。
小さな金属のイヤリングがついているだけでほっと救われ、味のある着こなしになるのはやってみればすぐにわかる。

 名料理人が料理の味付けに腐心するように、着こなしの美味い人は洋服という本体もさることながら、調味料たるアクセサリーの使い方に全力をあげる。
同じ服がアクセサリーの使い方ひとつで、別の服のように表情を変えるし、良くも悪くもなるのである。

 実用品でないだけに、つける数に制限のないのがアクセサリーでもある。が、だからといってありったけつけていいかというと、これはうるさくなるだけ。
適材適所、必要なところに必要なだけ、それこそ隠し味のように用いるのをよしとする。

 アクセサリーのつけ方にルールはない。しかし、何をどうやってもいいと言われても、まさしく自由の中の不自由で、見当がつかない場合がある。
(中略)

自分自身の目で決めるのだ。いや、それはイヤリングに限ったことではない。ネックレスでもブレスレットでも、それを決めるのは、つける人の修練なのである。

 失敗もあろうが、それを恐れてはいけない。アクセサリーをつける、それも似合うようにつけるにはそれしか方法がないのだから。
その意味でも、アクセサリーは簡単には買ってはいけない。

(中略)

 イヤリングが無事耳についたからと安心して求める人がいるが、彼女は何を買ったと思っているのだろう。アクセサリーというものは、場合によっては逆効果をうむことがある。付けてるものが全く余計なものになってしまう恐ろしさが
(中略)

 アクセサリーの本来は、洋服と調和することにある。たとえメッキであろうと、プラスチックであろうと、ガラス玉であろうと、服とぴったり息の合ったアクセサリーは本物の素材を凌駕してあまりあると信じていただきたい。
「本物より光り輝く偽物がある」といったのは、泥棒作家とあだ名されたフランスのジャン・ジュネであった。

 アクセサリーというものの生命は、つけた人に似合うことである。そのためにも自分自身の目を鍛えて、本物以上の輝きを見出す目を養ってほしい。

もしそういうアクセサリーが、幸運にも本物の素材、本物の細工で手に入ったとしたら、それこそ一生を通して得がたい財産となる。しかも、本物の素材の場合は、年を経るにつれてよくなる。いくら本物の金や銀でも、新しいうちは細工の隅々まで光り輝いて、落ち着かないものである。それが二、三年もすると翳りが生じて、深く沈むような厚みが出てくる。そうした年代の重なりが汚らしくなるどころか、益々質の良さににじみでるのが本物の素材のいいところ
衣服が新しくてなじまないとき、使い込んで年代を経たアクセサリーがしっかり衣服に溶け込んで着やすくしてくれるのも紛れもない事実だ。

 欧米では着こなしの中で、アクセサリーが重要な要素をしめている。アクセサリーを身につけるために服を着る、という逆の発想も少なくない。服はいずれすてなければならない消耗品だが、金属のアクセサリーは何代にもわたって永久に使用できる。
 アクセサリーaccessoryという英語の意味の中に「共犯」という言葉がある。まさしくアクセサリーは共犯者。あなたを貴方以上にみせてしまう、共犯者なのである。

以上、「着るということ」 水野正夫 1996年 藍書房 より、アクセサリーに関する章からご紹介しました。
私の愛読書のうちの
一冊です。
ジョーティシュ・ジュエリーとしてオーダー製作され
たジュエリーは、まさにこの、一生を通して得がたい財産と呼べる唯一のアクセサリーである、と私は思います。その幸運を分かち合えることに幸せを感じます。


 

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