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2017年4月 8日 (土)

ゾルバ ダ ブッダ

昨日は高尾ダイナミック愛好会の満月瞑想集会19回目でした。

継続し試行を重ねることでより
楽しめる瞑想会へと成長してきています。

以前は30〜40人とか集まって
市民会館の広い体育館で
行うことも目標としてましたが、、
過去12-3名がマックスでしたw

7-8名でシャバアーサナ(死体のポーズ)で仰向けになると一杯の
小さなスペースの音楽室で
こじんまりと行っていますが、
窓を開けると
すぐ横を流れる川の音がとてもいい感じの部屋です。

ヨーガや瞑想が有名人やセレブwに
人気といってもダイナミック瞑想は
少数派です。
参加するのにできるだけ
間口は広くしてるので、よかったら継続してみてほしいです。
続けることで深まっていきます。

わたし自身もこの瞑想を毎月毎月することになるとは
思いもしませんでした。
自分が主催してなかったらやっていないことは確実ですw

しかしながらここ最近になって
大きな変化を感じています。

プラーナで生きるという恩寵に
片足を入れ始めています

とはいえども完全にいわゆる食糧を食べない飲まないのではなく、、

自分で育てた野菜やハーブで料理を楽しんだり、お得なバイキングレストランに息子といくのも相変わらずですが

食べないことも食べることも両方楽しんでいるところです。

基本的に日没後は食べなくなり、
食事量が減ったおかげで消化の負担と不快なお腹の重さや脂肪が減り、

日の出のアグニホートラやヨーガのプログラムも余裕でできるようになりました。

私にとってこの世をハッピーに生きるための3種の神器(ツール)はこれまで
アグニホートラ
EM(有用微生物群)
サンスクリット語

でしたが、
プラーナで生きることが現実になってくるとさらにハッピー度が上がってきています。

20年以上前にアトピー性皮膚炎で苦しんで菜食にしてあっという間に治り、
皮膚炎は解消しましたが、
今はさらに別の意味で気楽に生きやすくなってきています。

食べて 食べるために働いて 食べたら
消化のために運動して、、
といった一連の
終わりなき連鎖
繰り返しは時に退屈しのぎだったり、虚しい感覚を抱くことがままありましたが

両方楽しむ、というのはゾルバ ダ ブッダという生きることを二倍楽しむコンセプトと同じなので
それについての質問に
オショーが答えてるところを
ご紹介します。

(質問)

あなたが話されると、ときとして私は、ギリシャ人ゾルバのように食べ、飲み、楽しく、そして、溌剌として、情熱的に生きるべきだという洞察を得ます。
そして私は、これこそが道だと思います。
また、別のときには、僧侶のように静かに座り、動かずにいることが道だ、と あなたは言っているようにも感じられます。それでは、
私たちはどうあるべきなのでしょう。

ゾルバなのか、それとも僧侶なのか
そして、どうすればゾルバと僧侶の融合が 可能になるのでしょうか?

この矛盾をあなたは うまく統合された、と私は感じています。
しかし、私たちが情熱と欲望に動かされるゾルバと、感情に走らない
冷静で 落ち着いたブッダの両方で
あることはできるでしょうか?

質問者への答えOsho

ゾルバがブッダになるとき
それは究極の統合だ
私は ここで、ギリシャ人ゾルバではなく、
ゾルバ・ザ・ブッダを創ろうとしている。

ゾルバは 美しい。
だが何かが 欠けている。
地上は 彼のものだ。
だが天国が 欠けている。
彼は巨大な
杉の木のように、
この世的で根づいている

しかし、彼には 翼がない。
彼は 空へ飛ぶことができない。
彼には 根はあるが翼がない。

食べ、飲み、楽しむこと自体は
完璧に いい。そこには何も 間違いはない。しかし、それだけでは充分ではない。

すぐに あなたはそれに飽きるだろう。
人は、ただ 食べ、飲み、
楽しみつづけることはできない。
すぐに楽しい
メリー・ゴー・ラゥンドは哀しい
ソリー・ゴー・ラゥンドに 変わるだろう。
なぜなら、
それはくり返しだからだ。
ひじょうに 凡庸な
精神だけが、 それで
幸せで ありつづけることができる。

もし、あなたに 少しでも
知性が あるのなら、遅かれ早かれ
あなたはその すべてが
まったくの無駄であることに
気づくだろう。

いつまで あなたは食べつづけ、
飲みつづけ、楽しみつづけることができる…?

遅かれ早かれ必ず 疑問が生じる。
こんなことにいったい どれほどの
意味があると いうのか?

なぜ?いつまでも その問を
避けることは不可能だ…そして、
もしあなたが とても知性的であるなら、それは いつもそこにある。
がんこにそこにある。
答を 求めてあなたの ハートを
たたきつづける

答えてくれ!なぜ?だ と。

そして、ひとつ
覚えておくべきことがある。
貧しくて飢えた人々が、
生に欲求不満に
なるのではない。違う。

彼らは欲求不満に
なることができない。

彼らは まだ生きたことがない
どうしてその彼らが
欲求不満になれるだろう?
彼らには希望がある。

貧しい人は いつも
希望を もっている。
貧しい人はいつも 何かが
起こることを望んでいる。
何かが起こることを期待している

もし 今日でなければ
明日か明後日に、もし 現世でなければ
…来世に。

どう思うかね?天国を
まるでプレイボーイ・クラブのように描いている、これらの 人々とは
いったい誰だろう?

飢えて、 貧しく生を取り逃がした人々
彼らが自分たちの 欲望を天国に投影している。

天国にはワインの川がある
ワインの川を想像する
これらの 人々とは
いったい誰だろう?

彼らは “ここ”を
見逃したにちがいない。
そして“望みを叶える木”
がある。あなたはその木の下に座り、
望みを かける。そして、
あなたが望みをかけるその瞬間、
直ちに その望みは
かなえられる。

欲望とその実現の
あいだには一瞬といえども
経過がない。

欲望とその実現の
あいだには影すらもない。
それは、即刻、即座だ!

これらの 人々とは
いったい 誰だろう?

餓えたままで、彼らは
自分たちの生を 生きることが
できなかった。

どうして彼らが生に
欲求不満になれるだろう?
彼らは経験していない

経験を通してのみ
人は そのすべての、
まったくの無益さを
知るようになる。

ゾルバたち だけが、
そのすべてのまったくの無益さを
知るようになる。

仏陀自身ゾルバだった。自分の国で
集められるだけの
美しい女性は すべて彼の ものだった。

彼の 父親は、すべての
美しい娘たちを彼のまわりに置いた。
彼は美しさが ことなる季節ごとに
移り住む、とても美しい宮殿を もっていた

彼は可能なかぎりの、
あるいは、その 時代に
可能だったあらゆる ぜいたくを
尽くしていた。

彼は、ギリシャ人ゾルバの
生を 生きた。
その結果彼はわずか29歳で
すっかり 欲求不満になってしまった。

彼は とても知性的な 人だった。
もし、 彼が凡庸な 男だったら、
そのなかで生きつづけていただろう。

だが、すぐに 彼は要点を 見抜いた。
それは くり返しだ、
それは 同じことだ、と。
毎日 あなたは食べ、
毎日 あなたは
女性と 愛を交わす…しかし、
彼には愛を 交わすための
新しい女性が毎日いた。

しかし、いったい
いつまで…?
すぐに彼は
あきてしまった。

生の体験は とても苦い。
それは 想像の なかでのみ甘い。
実際には、それは 実に苦い。
彼は宮殿から、女性たちから、
そしてその富、ぜいたく
すべてから逃げ出した。

だから私はギリシャ人 ゾルバに
反対しない。なぜなら、
ギリシャ人 ゾルバは
ゾルバ・ザ・ブッダの
まさに基礎だからだ。

ブッダはその体験から
生まれる。

だから私はこの世間を
完全に 支持する。なぜなら、
超えた世界はこの世間を
通してしか体験されえないからだ。
だから私は そこから
逃げ出せとは 言わない。

あなたに僧侶になれとは 言わない。
僧侶はゾルバの逆を行った人間だ。

彼は 現実逃避家だ。
臆病者だ。彼は
知性が ないために、
急いで 何かをした。
彼は成熟した人間ではない。

僧侶は 未熟だ 貪欲だ
超えた世界に対して 貪欲だ。
そして、それを今すぐにでも
手に 入れたい。
しかし その季節は
まだ来ていない
それに、彼はまだ 熟していない。

この世間で生きなさい。
なぜなら、この世間は
熟成を、円熟を、統合を
与えて くれるからだ。

この世間での挑戦は、
中心に定まることと
覚醒を 与えてくれる。
そしてその覚醒が梯子となる。

そうなったら、
あなたはゾルバからブッダへと
動くことができる。

だがもう一度
繰り返させて欲しい。
ゾルバ だけがブッダに なる
それに、仏陀は決して僧侶などではなかった。

僧侶とは、一度も ゾルバであることがなかったのに、ブッダたちの
言葉に魅せられた人間だ。

僧侶は 模擬者だ。偽者、偽りだ。彼は
ブッダたちを模倣する。

彼はキリスト教徒かもしれない、
仏教徒かもしれない、
ジャイナ教徒かもしれない
それは大した違いではない
とにかく、彼はブッダたちを
模倣する。

僧侶が世間を 離れるとき、
彼は世間と 戦いながら離れてゆく。

それはくつろいだ行き方ではない。
彼の 全存在は、世間の方に
引っ張られている。

彼はそれに逆らって奮闘する。
彼は分裂する。彼の存在の 半分は
世間を求め残りの半分は
超えた世界を求めて
貪欲に なっている。

彼は引き裂かれている。
僧侶は 根本的に
精神分裂症的な人間だ。
分裂した人間 高いものと 低いものとに分裂している人間だ。

そして、低いものが
彼を引っ張りつづける。
その 低いものが
魅力的になればなるほど、
それはさらに 抑圧される

そして、低いものが
彼を引っ張りつづける。
その 低いものが魅力的に
なればなるほど、それは
さらに 抑圧される。

そして、彼はその低いものを
生きたことがないので、
高いものへと入ることができない。

低いものを通り抜けない限り、
高いものへと
入ることはできない。
あなたは低いものの
あらゆる苦悩とエクスタシーを
通過することによってのみ、
高いものを稼ぎ取ることができる。

蓮は 蓮になる前に泥を通って
ゆかねばならない
その泥が 世間だ
僧侶は泥から 逃げ出した。
彼は 決して蓮にならないだろう。
それは、まるで 蓮の種が
泥のなかに 落ちるのを
恐れているかのようだ

「私は蓮の種だ!
泥のなかに落ちるわけにはゆかない」という エゴのせいで。

しかし、そうなってしまったら、
それは種のままに
とどまることになる。
それが蓮として咲くことは
決して ないだろう。

もし 蓮のように
咲きたいのなら、
泥のなかに落ちなければならない。
この 矛盾を 生きなければならない。

泥のなかで生きるという、
この矛盾なしには、
超えてゆくことなどありえない。

私は、あなたを僧侶に するような
人物ではない

さもなければ、なぜ
僧侶たち、尼僧たちは
こんなにも 私に
反対しているのだろう

私はあなたに
大地に根づいてほしい。

「私はあなたたちに
懇願する。同胞たちよ
大地に誠実で
ありつづけることだ。
そして、あの世的な
望みを語る者たちを 信じてはいけない!」と言う
フリードリッヒ・ニーチェに、
私は 完璧に同意する。

信頼の最初の レッスンを、
大地を信頼することから
学びなさい。
今の今は、それがあなたの我が家だ

あの世に憧れては いけない。
この世を生きなさい。
そしてそれを 強烈に
情熱をもって生きなさい。

それを余すところなく、
あなたの全存在で
生きなさい。そして、
その信頼全体から、
愛と、喜びの生から、あなたは
超えてゆくことが
できるようになる。

超えた世界は、
この世間の なかに隠されいる。
ブッダは、ゾルバの なかで
眠っている。

それを目覚めさせなければ ならない。
そして、生そのものよりほかに、
あなたを目覚めさせられる者はいない。

私は、あなたがどこにいようとも
全体的でいられるように、
手助けするためにここにいる。

自分が どのような
境地に いようとも、
その境地を全面的に生きなさい。

人はひとつのことを全面的に
生きることによってのみ、
それを 超越する。

まずは ゾルバに、この 地上の
一輪の花になりなさい。
そしてそれを 通して、
ブッダに 超えた
世界の花になる力量を
稼ぎ取りなさい。

超えた世界はこの世間から
離れては いない。

超えた世界はこの世間に
反しては いない。

超えた世界はこのなかに
隠されている。

“これ”は向こうの
現れにすぎず…

向こうはこれの
現されていない部分だ。
Osho,
The Perfect Master,pp.120-123

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