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2018年4月16日 (月)

分別と不分別

分別とは
https://dictionary.goo.ne.jp/jn/

>道理をよくわきまえていること。また、物事の善悪・損得などをよく考えること。「分別のないことを言う」「よく分別して態度を決める」

とあるが、仏教で言う「分別」は上にあるような一般的な良い意味合いとは全く反対で迷いと苦悩の根源なのだそうだ。

しかしながら思考は必ず「善悪」「美醜」「甲乙」「好き嫌い」といった、相対的、比較的な判断(ジャッジ)をする。

私たちは常にあれは良い悪いと分別しながら生きている。
こっちの店の方があっちの店より安くて新鮮な物を売っている、など日常生活においては、人様に迷惑をかけないためにもゴミの分別もしかりでマインドをきちんと働かせなければならない。

一方、仏教で言う「無分別」は、真の知恵で、相対的な見方から離れたところでの、覚りの知恵を意味しているんだそうだ。

「あるがまま」を「あるがまま」に分別せずに、、、などと言っても心の働きの性質上、分別しない、なんてことはそもそも人間にはできない。
できないことを目指すからまた苦しくなっては本末転倒だ。

人間は自然に分別するのが本性なのである。いい悪いを判断しなくて許されハッピーなのは赤ちゃんだけだ。
子供はこの世で生きるために親に社会に分別を教えられる。
そうでなければ犯罪者にだってなれるだろう。

私たち人間にできることは、あるがまま、などできないことを目指すのではなく、油断なく【分別している心の働き】に気づいて、それすら受け入れることだ、とブッダは言いたかったのではないだろうか。それなら誰だってできる。

内と外では正反対に使うべき分別を理解していないと、外側では無分別にO教団のごとく殺人をもおかしても正当し、内側では分別して葛藤しまくる、というとんでもないことになる。

自分が苦悩するだけなら、その苦しみから逃れたい、と思うに至れる。
常に泉のごとく湧き出てくる葛藤と言う名のストレスを解消するだけでは人生はもったいない。
と私が思うようになったのも、子供の時から不分別に生きて葛藤しまくりだったおかげ?かもしれない。

みんながやるから自分もやる、というのはできなかった。
ただ単に年取った人を意味もなく形だけ敬う、というのはおかしいと思ったので、表裏ある態度で平静を装いつつ裏では悪口、ということもできず、学校の先生や大人からはことごとく目の敵にされてきた。

少数でも理解してくれる友人がいたのと、中学生のときから沢山アルバイトをして色んな職場で働いてきて、中には面白がってくれる大人がごく少数いたのは助かった。

人間は悟っていない限り、だれしも程度の差はあれ無自覚に外側では不分別、内側ではジャッジしまくってる。

それが苦悩の根源になっているのはブッダの言う通り間違いない。
そんな生き地獄から脱してハッピーに生きるために、外側の分別と内側の不分別を一生かけて開発していきたいと改めて思う。












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