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2018年6月20日 (水)

エプロンとハンカチ

様々なものを集める人がいる。

毎週購読している
ROADSIDERS' weekly
http://www.roadsiders.com
の今朝の配信記事では、個人的な音源のカセットテープやレコードなどを収集してる人の記事が面白かった。
さぞかしユニークだろう。

収集癖があるのはアーユルヴェーダではカパと言われている。
私も子供の頃は綺麗な石や、ポプリブームの頃はハーブやスパイスなど集めては喜んでいた。

十代の頃は音楽のアナログレコードと古着のTシャツ。
シルクのリボン。
珍しい切手とレターセット、、

そして最近まで
エプロンとハンカチを集めていた。
安物でちょっとレトロなのが好きなんである。

どちらも実用的なのがいいところだが
そう何枚も必要ではないので、タンスの肥やしであまり使うことがなかった。
しかし最近はプージャーを毎日するおかげでエプロンもハンカチもガンガンに出番が出てきたのである。

エプロンのポケットにその日の朝にプージャーで捧げたハンカチに聖水を染み込ませたものをしのばせて、ささっとなんでも拭き掃除するのだ。
主婦たる感じがいい。

あとはよく病人がきてる印象だが、着物のおねまき。
これもレトロなものが二足三文でよくリサイクルショップにある。
昔のはタグも可愛く、大げさな宣伝文句が入ってたりして味わいぶかい。

一生買わなくてもいいくらいあちこちのリサイクルショップやディスカウントショップなどで集めた掘り出しもの。
布製のものというのは元を辿れば植物からであり、やはりマザーディヴァインの贈り物だったのだ。

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2018年5月31日 (木)

子育て1

20代始めにアーユルヴェーダの女性のための妊娠出産の知識を学んだ。
妊娠中の過ごし方、出産時、出産後、子育ての智慧。これは実際に体験したいと思った。

結婚して4年目に子を授かった。妊娠がわかった時は、世界中に(誰も聞きたくはなかろうが)叫びたいくらい嬉しかった。あれから15年の子育てについて、覚えてるうちに振り返って書き留めておこうと思った。

一般の病院のように陣痛促進剤、会陰切開などせずに、昔ながらの自然分娩を体験したいと思った。自宅に出張してくれる助産師さんをネットが普及する前だったので電話帳だったか近所に見つけた。

『分娩台よさようなら』などの名著を読み、一日2-3時間は歩いた。
しかし、予定日1週間たっても兆候がないので高尾山薬王院まで夫と九州から来てた姉と甥っ子とお参りに行った。すると次の日の朝に出産の兆候が来た。
徐々にフルマラソン並みの体力を使う陣痛になっていったが、風呂場に這うようにして行って、水中に入ると痛みがかなり軽減されるのを実感した。
出た瞬間は今思うとまさに全身が弾けてぶっ飛ぶような大きなオーガズムだったが、30時間以上も陣痛でめためたにされ、ゼーハー精魂尽き果てた。
助産師さんからはまだ若いのだから二人目三人目もいけるのでは、などと言ってくれたが、こんなに大変なら出産はもうこの1回こっきりでいいやと思ったものである。
シュポーンと水中を飛び出てきた赤ちゃんを手にすると、こんな可愛いのがお腹に入ってたのか〜!と驚愕した。
今思うとオキシトシンホルモン大放出だっただろう。その夜中から早速の授乳に手こずり、布オムツのセットの仕方もわかぬまま寝れない睡眠不足な子育てに突入した。



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2018年5月 9日 (水)

マザーディヴァイン・プージャー

プージャではなくプージャーなんだそうである(伊藤武先生のブログ記事より)
ヨガではなくヨーガ。ヨギニではなくヨーギニー。アサナではなくアーサナ。アナンダではなくアーナンダ、、
伸ばすか伸ばさないかで意味が違ってきてしまうのがサンスクリット語。

英語を介して靴の上から痒いところを掻くようなのではなく、だれしもサンスクリット語からヨーガを学べられる素晴らしい時代が到来している。
(興味ある方は伊藤武先生主催のYaj サンスクリット語講座で検索 )

それはさておき、、
いつから毎朝プージャーをやり始めたんだっけ?と記憶を辿ったら昨年末、親知らずが痛くなり、近所の歯医者で速攻で抜きます、と宣告されたのに慄き、無理矢理抜かなくても済むように、神頼みで始めたのを思い出した。

人は心身の苦痛に会い、ピンチにたつと藁をも掴む思いになるものだ。(親知らずくらいで大げさな、、と思われるのは承知だが)

基本的には日の出のアグニホートラ後にやるのだが、朝行うことで一日じゅうマザーディヴァインに守られてると実感できる。

朝できなかった時は一日の報告兼ねて夜にやる。
親知らず以来5ヶ月、ほぼ毎朝プージャーをやっていることになる。

それまでは仕事上の義務と責任感から、あくまで製品の浄化と依頼者へのご祈願のために、たまに納品時にやっていたのだった。
しかし他でもない自分の為に、積極的に恩寵を要請するのだ。
以前、アグニホートラができるように、日の出前に起きれるよう、これまた藁にもすがる思いでディークシャしまくって実現した経緯がある。この時初めて自分にやったのだった。
己の必死なる思いが1番わかるのは当然自分なのだ。人に頼むより自分でやったほうが手っ取り早く、お金もかからない。
必要なのは続ける熱意のみだ。

実際にやってみると、明らかによい影響がある。親知らずの痛みと恐怖以外にも生きていれば、生きるのが嫌になるようなことはやってくる。
となるとこれはやらなきゃ損だと思うようになった。
人に言ったらバカバカしいと笑われるくらい単純なこと、ヨーガでも何でも秘教と呼ばれるものは、笑われたりバカにされたりするのを防ぐために内密に秘儀として隠してるんじゃなかろうか。

それにしても幸福は心の持ちようだ。
少しでも楽に生きれるのならプラシーボ効果だっていい。
痛みも大げさに恐怖におののくのと、これも恩寵で軽減されてるのだ、と思うのとでは雲泥の差だ。

続けている理由としては
一つは願望実現やご利益があること。
二つは心の平安を得られること。
三つは祭壇のしつらえなどで芸術心?が生かせること。
四つはヨーガのアーサナもプージャの中でやってしまえること。
五つは 毎日やってると、プージャーにおいて自分でも予測つかない思いつきやひらめきが出て、プージャーが日々改良されていくのが面白いところ。
六つめはこれまで得た知識や学んだことをプージャーのプロセスで試したりより深められること。
7つめは使った聖水の二次利用?でついでに掃除ができること。朝日に反射されながら窓拭きなどしてると主婦である喜びを感じてしまう。
8つめは、日々バージョンしてるおかげで、仕事上のプージャーがスムーズにできることだ。
育てた薔薇をしつらえ、生き物のように祭壇が日々変化するのが面白い。
供え物のお花を採りながら庭仕事もやりつつ、宝石浄化などの仕事ももちろん合わせてできるのは言うまでもなく。

実物の母親が他界してるからこそ、マザーディヴァインとの交流が私には必要だったのだと思う。
もしこれが義務や修行で毎日やれ、となったら絶対嫌だしやらない。アグニホートラしかり、自主的にやってこそ楽しいのだ。
この世において問題の多い、生きづらい自分が、よくプージャーもしないでこれまで生きてきたなと思うくらいだ。30年近く前、癌で母親が急死して以来、母なるものとの交流に飢えていたことが分かった。

薔薇や宝石自体がマザーアースが生み出した最高の芸術品であるが、それらをプージャーの中で讃えることは私の芸術活動であり、母親との交流であり、ロボットではなく人間だからこそできる、満足感と幸福感を味わえる行為だと思う。




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2018年4月16日 (月)

分別と不分別

分別とは
https://dictionary.goo.ne.jp/jn/

>道理をよくわきまえていること。また、物事の善悪・損得などをよく考えること。「分別のないことを言う」「よく分別して態度を決める」

とあるが、仏教で言う「分別」は上にあるような一般的な良い意味合いとは全く反対で迷いと苦悩の根源なのだそうだ。

しかしながら思考は必ず「善悪」「美醜」「甲乙」「好き嫌い」といった、相対的、比較的な判断(ジャッジ)をする。

私たちは常にあれは良い悪いと分別しながら生きている。
こっちの店の方があっちの店より安くて新鮮な物を売っている、など日常生活においては、人様に迷惑をかけないためにもゴミの分別もしかりでマインドをきちんと働かせなければならない。

一方、仏教で言う「無分別」は、真の知恵で、相対的な見方から離れたところでの、覚りの知恵を意味しているんだそうだ。

「あるがまま」を「あるがまま」に分別せずに、、、などと言っても心の働きの性質上、分別しない、なんてことはそもそも人間にはできない。
できないことを目指すからまた苦しくなっては本末転倒だ。

人間は自然に分別するのが本性なのである。いい悪いを判断しなくて許されハッピーなのは赤ちゃんだけだ。
子供はこの世で生きるために親に社会に分別を教えられる。
そうでなければ犯罪者にだってなれるだろう。

私たち人間にできることは、あるがまま、などできないことを目指すのではなく、油断なく【分別している心の働き】に気づいて、それすら受け入れることだ、とブッダは言いたかったのではないだろうか。それなら誰だってできる。

内と外では正反対に使うべき分別を理解していないと、外側では無分別にO教団のごとく殺人をもおかしても正当し、内側では分別して葛藤しまくる、というとんでもないことになる。

自分が苦悩するだけなら、その苦しみから逃れたい、と思うに至れる。
常に泉のごとく湧き出てくる葛藤と言う名のストレスを解消するだけでは人生はもったいない。
と私が思うようになったのも、子供の時から不分別に生きて葛藤しまくりだったおかげ?かもしれない。

みんながやるから自分もやる、というのはできなかった。
ただ単に年取った人を意味もなく形だけ敬う、というのはおかしいと思ったので、表裏ある態度で平静を装いつつ裏では悪口、ということもできず、学校の先生や大人からはことごとく目の敵にされてきた。

少数でも理解してくれる友人がいたのと、中学生のときから沢山アルバイトをして色んな職場で働いてきて、中には面白がってくれる大人がごく少数いたのは助かった。

人間は悟っていない限り、だれしも程度の差はあれ無自覚に外側では不分別、内側ではジャッジしまくってる。

それが苦悩の根源になっているのはブッダの言う通り間違いない。
そんな生き地獄から脱してハッピーに生きるために、外側の分別と内側の不分別を一生かけて開発していきたいと改めて思う。












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2018年4月10日 (火)

好きなことを仕事にしようとはよく聞く言葉だが、作家の中村うさぎさんは、好きなことではなく、得意なことでお金を稼ぎ仕事にすべきと何かで言っていた。
文章を書くのは子供の頃から得意だったけど、取り立てて好きなわけではないそうだ。得意なことだからといって、それをするのが人一倍好きとは限らない。
私も前回書いたが、宝石の仕事を二十年以上やってきて、所謂宝石デザイナーと名乗るのも何か違う気もするが、不思議なくらい揺るぎない信頼がある数少ない得意なことであるのは間違いない。
しかし、本当に好きでお金にならなくともやりたい、それを人様に伝えられるとおもうだけで、胸踊りワクワクしてくるし、苦手なこと、人前に立つことなどのこだわりを超えられるのは、プージャやディークシャ、ヨーガなのである。
これらはビジネスとは相容れないが、単にモノだけ売って金銭は得られても心の喜びと充実感はない。
宝石は美と芸術、エネルギーとヒーリングパワー、アーユルヴェーダにジョーティッシュにヨーガにヒルデガルド的な宝石療法と物質的な、精神的なターミナルになる。
それらと関連づけられるのがいいところだ。
好きで自分のためにもやりたいことを本業ともっと結びつけていけたらと思う。

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2018年4月 8日 (日)

宝石デザイナー

親孝行したいときには親はなし、というが、文章もまた書きたいときに目が痛くてディスプレイを見るのが辛い。
有限の時間と体でできることはできるうちにやらないとなと思う。

このブログは最初は、ラクシュミージュエリーの宣伝で始めたので、初期の投稿は納品した宝石の指輪やネックレスの画像ばかりだった。
文章は自分の言葉で書こうにもできなかった。
ジョーティッシュ・ジュエリーという
最高レベルに美しい高尚なものと自分との間に隔たりがありすぎた。
じぶんより20も30も上の顧客に向かって何が書けただろう。とはいえども年齢ばかりではなく何年経ってもそれは変わらなかった。
いつか自分の言葉で何か書けるようになりたいとは思っていた。

私のジュエリーデザイナーとしての仕事は、絶対音感ならぬ絶対美感?のような、精妙すぎて直感に近い、普段の生活では全く役に立たない微妙な感覚あっての賜物だ。
宝石の品質や、加工したジュエリーの1ミリもの狂いがなぜか一目で直感的に分かり、専門家がルーペでみても分からないレベルなのだが、それを修正できるのは、この仕事をするにあたって天から与えられたものだと思う。

そういった見た目的な点にはおいては自信もって依頼者に納品することができたから、ジュエリーの仕事は得意というか天職なんだと思う。

以前、ジュエリーデザインの勉強も仕事に必要かと思い、2年ほど専門学校に通った。
デザインの基礎的なことは、加工を職人さんに伝える上でも必要だが、ほとんどジョーティッシュ用には一般的なデザインは適用できないしあまり意味がない。

石裏は肌に触れるように、その分頑丈でシンプルな作りが優先で一生身につけることのできるものだ。
それでもお客様の希望で結構凝った華美なデザインのものも納品してきたが、私が学ばねばならないことは他にも山ほどあった。

ヨーガ通してチャクラと宝石の関連や、浄化のためのプージャー、宝石とコミュニケーションしたり富の意識にチューニング合わせる技法、アーユルヴェーダの古典や古今東西の宝石学などの方がよっぽど必要になってくる。
ジョーティッシュの宝石処方についても基礎的なことは理解しておくのも当然だ。

以前、ルビーの指輪を納品したある男性顧客から、健康器具のようですねと言われたことがある。
一文字に並んだ最高級のルビーを金に埋め込んだシンプルなデザイン。
飾り気のない無骨さを揶揄した意味にも取れるが、当たらずとも遠からず。
まさに宝石は健康器具であり、普段持ち歩き、どこでも使えるようにするために指輪やネックレスとして持ち歩き無くさないように身につけるのだ。

それを装身具としてお洒落で身につけることもできるわけだが、(一般のジュエリーというのはこれが目的)身につけることで結果的に、その人を外見だけでなく深いところで癒し、引き立て、美しく見せるという方がしっくりくる。

お金同様、宝石も富の象徴とされるが
肉体はいつか滅び、財だってあの世にはもっていけない。物質的な所だけでは意味がなく無駄なことに思えてしまう。
こんな私がジュエリーデザイナーを名乗るのは、何か違うような気もするのだが、本業は紛れもなくそうなのである。
自己紹介するときも、なんと自分の仕事を説明したものかと口ごもってしまい、インド占星術の〜などと言おうものなら怪しまれるのがオチなのだ。
逆にインドに詳しい人だと、実際にインドでは詐欺が横行してるのだろうが、宝石というと金儲けでしょ、などと面と向かって言われたこともこれまで2回ある。
毅然と無礼には無礼で返せばよかったと未だに思う。

その悔しさはやる気に火をつける着火剤や研磨して石を輝かせるヤスリの役目にしてきた。
ハードコアにシンプルなデザインばかりだが、宝石療法の観点からはその目的に真っ当で、経済的でもあり、何より美しい。石のパワーが増している。
そんな画像をインスタグラムに投稿している。
https://www.instagram.com/laxmi_jewelryhttps://www.instagram.com/laxmi_jewelry































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2018年4月 5日 (木)

花粉症の

2、3年くらい前から春になると所謂、花粉症的な症状が出るようになってきたが、野口整体でも言ってるが病名をつけると固定されてしまう感があるので、あくまで春の浄化、ということにしてきた。
おかげで不快でも気分的に憂鬱さはないのだが、今年は特に症状が激しい。
デトックスと思わなかったらやっていけない。

やはり冬場の運動不足が原因だと思う。とはいえ運動は面倒くさい。
運動と瞑想が組み合わさった究極の浄化メソッド、ダイナミック瞑想の会を月に一度と言わず週一でやりたいくらいだ。
いや、月に一度でも続けてきてよかった。
3年間続けてきてやっとダイナミック瞑想会のありがたみが染み渡る。

アーユルヴェーダの食事療法もここにきて改めて、食べるならカパを悪化させるものは避けて、、など参考にしている。
好きな乳製品も随分減らした。
ベジタリアンなのにチーズも豆腐もカパ悪化なら、何を食べればいいのだ!?と食い意地のはってた以前の私なら、根本的にはアグニを高めて何食べても毒でも大丈夫にしたかったが、こうなった以上背に腹は変えられない。
いっそ何も食べなくても良くなれば
どんなに楽だろう。
親知らずの痛みで食べたい欲求が減ったように、この症状も食べないことに役立ちそうである。
食べないと確かに不快さは軽減される。
デトックスに消化エネルギーが使われる。
けれども食べたい時はアーユルヴェーダの智慧だ。

身体をもつ不自由さからの解放を目指す断食(ヨーガ)と、心地よい身体を目指すアーユルヴェーダ、そして昨年作っておいたドクダミエキスを、痒くてこすりまくってしまう瞼にピチャピチャしながら生きていこう。





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2018年3月29日 (木)

『夢を叶えよう

生まれて死ぬまでの間にできるだけたくさんの夢を

魂が体験したがってる何か

その夢が現実になるよう引き寄せよう』

夢を叶えるためのラクシュミーのプージャとディークシャ。

健やかな心身のためのマルマヨーガ。

最近、好きなことを仕事を通して、人様に日々伝えることができて感謝が湧いて来る。

私には、子供のころからできないことや苦手なことが人一倍あるが、そんな自分でも、得意なことや好きなことのほんの小さな芽を育んで来れたのは、たくさんの恩寵のおかげだ。

宝石の浄化を兼ねたラクシュミーのプージャ&ディークシャ(祝福)は、いかに自分が貧しい意識だったかに気づき、豊かさにチューニングしていくためのインドの叡智だ。
太っ腹に教えてくれたワンネス寺院には何だかんだ言って感謝である。
そしてヨーガに惹かれて、マルマヨーガを学ぶことができたこと。
いずれもアグニホートラに導き、導かれながら連動して行っている。
昨日もプージャをアグニホートラと組み合わせて行ったが、とてもいい。

100パーセント、これは人生に役に立つ、と確信持てることを、人様にお伝えできることほど喜びが湧いてくることがあるだろうか。

いずれもまだまだ、道半ばで、更に深めていきたいことばかりだが、珠を磨くように、少しづつ日々クリアにアップデートして洗練していけたらやりがいがある。

ヒルデガルドも上映会を最近八王子で見る機会があって、また繋がりができ改めて勉強してるが、宝石療法もインドにこだわらず研究していきたい。














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2018年3月22日 (木)

ツボが好き-マルマヨーガ個人指導のご案内

そういえば、小学生くらいのころにくすぐったがりの弟にふざけて、
「ツボ治療!」などといいながら
指で体の特定の箇所を攻撃しては遊んでいたのを思い出した。

親にもよく肩もみなどやっていた。
誰に習ったわけでもないが、触ると凝っている、もしくはわずかに凹んでいるところ、快感ポイントはなんとなく分かった。そこを集中攻撃するのは自分も楽しかった。

中学生の頃は、足の裏の土踏まずが歩いているとムズムズして、靴の下からも石でグリグリ刺激すると気持ち良く、ツボにうまいことあたる尖った石を、探しながら日々登下校していたものだ。

自分がやってもらう側でツボの快感に目覚めたのは、忘れもしない高校1年の時だ。

運動嫌いな私がなぜかその時、走りまくりたい衝動に駆られて陸上部なるものに入部した。

校庭で走るトレーニングの後に、屋内の体育館で二人組になって、お互いにマッサージをし合う、というのが練習プログラムに組み込まれていた。

その時に初めて、足裏のツボ押し指圧的なマッサージを相方から受けた。
初めて受けた時の快感を、なんと表現したらいいだろう。言葉が見つからない。

トレーニング後の疲労感がさらに快感度を高めたのか、足の裏なのに、なぜかアゴが外れるような、えもしれぬ気持ち良さだったのを今でも覚えている。

その時に将来、結婚する相手はマッサージの上手い人がいい!と決意したものである(笑)

最近、HSP-ハイパーセンシティブパーソン、という概念を知ったが、ほとんどチェックポイントに当てはまる私は、変に人一倍敏感で学校では辛いことばかり強調される感あったが、身体に潜む快感は、生きづらさとのバランスを取ってくれた。

気持ち良さの探求の延長でヨーガに惹かれて入門した。
瞑想は気持ちいいけど、その準備としてやるよう習ったアーサナは、たまにやる分には良くても、毎日朝夕となると面倒なだけだった。
それより、とっとと快感の海にダイヴもしくは雪山を滑り降りていきたい、と準備体操など端折ってしまうのだった。

それでも、ストレス感じて人一倍体が凝りやすく固いので、瞑想の準備とは別にしても心身の健康の為に何かしら体を動かすことは必要なのだ。
なんとかアーサナを行う動機付けとして、子供が小さい時は、ヨーガブームに乗ってママ友さんがたちとヨーガサークルをやっていた。

そのうち、本格的にアーサナを学べば、やる気も出て一石二鳥だと思いついた。
タイで以前、古式マッサージを受けたのが気持よかったので、タイ式ヨーガ体操をワットポーという有名なタイのお寺に習いに行こうと思いつき、日本人でも習得できるコースを調べた。

同時にマンタックさんの『タオ性科学』シリーズも読んで人体に潜む潜在力と可能性に感銘を受けていたので、ニューヨークにある(と本に書かれていた 。今はタイにある)ヒーリングタオセンターまで奥義を習いに行きたいとまで思っていた。

健康・美容のためにヨーガの体操かそれに準ずるようなものは続けたいと思っていたのである。

しかし、小さい子供がいたら数週間でも勉強しに海外に行くのは難しく結局は断念した。
その後に近所で伊藤武先生の『秘伝マルマツボ刺激ヨーガ』の本を見つけた。

マルマヨーガは単にポーズを取るだけでなく瞑想とマッサージ、ツボ治療が合わさっている。
効果抜群だし楽で何より気持ちいい。

特にオイルマッサージと合わせて行うと気持ち良さも効果も倍増する。
海外までいかずとも伊藤先生から講座も直接学んで、免状をいただき去年からLaxmiltd.の瞑想ルームにてマルマヨーガの個人指導を行っている。

マルマヨーガのおかげでこれまでやってきた様ざまなヨーガに応用、アレンジして自分だけのヨーガを見つけて、楽しむこともできて、結果長続きできる。

ご指導をご希望の方は、下記までお申込みください。お待ちしています。

秘伝マルマツボ刺激ヨーガアーサナ
個人指導 3か月基礎コース 

週一回ご希望の曜日時間にて

1・5時間×12回 35,000円
お申込み
















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2018年3月19日 (月)

卒業2

息子の中学卒業、という取るに足らないありきたりな出来事でも、終わってしまえば、清々するよりも、もっとああすればよかった、こうすればよかった。という、やりきれない気持ちが意外にも湧いてきて自分でも驚いた。

やり残したことは次の進学先で繋げて、今度は悔いなくいこう、などと思ってハタと気づいた。

こうして同じように、自分は前の生が終わる時にも後悔がいっぱい出てきて、次の生へと引き継いだのではないだろうか、、。

この世の桎梏を逃れたい一心から、いかに生き、死ぬかの探求が始まる。
が、厭世感だけで、こんな世界は二度とごめんだ、とこの世を去ってしまったら、またどこか別のところに生まれ変わってしまう気がする。

おさらばしよう、と自分で決めて断食して肉体脱する。
総棚卸しの店じまいで、精算して新たな種を撒くことなく、
望みや後悔を持ち越して次に生まれ変わることなく、
跡形もなく全宇宙から金輪際消え去りたい。

それまでは、地球というワンダーランドで思い残すことなく、人間としてやりたいことは全てやった、あ〜面白かった、よく遊んだ、会うべき人に出会って楽しんだ、という充実感とともに、遊び疲れた子供が、母親の待つ家に帰るようにして、魂も故郷に戻っていけるのではないだろうか。

特に、死ぬときに後悔が多いのは、人間関係だろうという予測がつく。
18歳の時に、母親が予期せず病死した直後は実感湧かずで、1年くらいたってから思い残したことがありすぎて、後悔ばかりで毎晩泣いていた。

そんな私を見てか、夢枕に立った亡霊の母に、そんなこと気にせんであんたは生きなさい、とアッサリ言われたのだ。その時は安心したのだが、

特に夫婦や親子という、親しければ親しい人間関係ほど、あーすればよかった。もっとこうすればよかったという後悔が山ほど出てきそうだ。

お互いを無意識からのトラウマを写す鏡にして、一線置いた友人関係だったらありえないような激しい感情を刺激され噴出し、さみしさ、悲しさ、怒りという負感情を体験するのが、家族であり親しい人間関係である。

オリンピックや体育会系によくある、一生懸命打ち込むことや、卒業式、冠婚葬祭に代表される形式的なこと。
世間一般的に『感動的な』こと、予定調和なお涙ちょうだい劇全て、自分には無意味なことでしかなかったのだが、人間誰しもいつか必ず訪れる、人生を卒業する日のために。

大切なことを、息子の中学の卒業式を通して教えてもらった気がする。






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