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2018年7月19日 (木)

今年の芥川賞受賞は『送り火』と発表された。
設定が中学3年生の男子転校生ということで、うちの息子と重なるので、どういう世界が描かれているのか?と文芸誌に掲載されていたのを数ヶ月前に図書館で読んでいた。

小説は世相を表すという。この凄惨で暴力的な救いようのない中学生たちの物語が、今を映す芥川賞受賞作なのだ。
文学的には素晴らしいものなのだろうが、内容的にはフィクションとはいえども、ホラー映画や小説は読まないが多分それと同じくらい恐ろしい世界がこれでもかと描写されている。

こういった少年少女の話の中で、親や周りの大人がいかに鈍感であるか、ということがシニカルに描かれているのはお約束だが、子を持つ親にとっては
いい参考になる。

しかし、これを読んで子供を産もうと思う人は、気が削がれるのではないだろうか。
ここまでひどくなくても、地上の子供を取り巻く学校を舞台にした装置は、決して優しいばかりではない。

だからこそ公教育ではなく、様々なオルタナティブな選択肢のあるのもまた今の時代なのである。

そんな時代の恩恵を受けて、息子は幸い、この小説とはかけ離れた平和的な学校生活を送っているが、この国のどこかで。
多かれ少なかれ、似たような状況があるのだ、ということも忘れてはいけない。






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2018年7月14日 (土)

子育て中の親の社交性はこどもにも反映される。
初対面の人と気さくに話すなど、わたしには苦手とするところだった。
なんととっつきにくい人間だったことだろう。
独りが気楽と子供が小さい時は、ママさん同士がひしめく公園デビューなどもってのほか、と朝早くに誰もいない公園に一人息子を連れて行って、人が来たら帰るという感じだった。

自分の好きな人とだけ狭く深く付き合えばいいと思っていたが、
子育て中の親としてはままずかったな〜と振り返って思う。

自分が子供の時は子供が苦手な子供だったが
大人になったら大人が苦手になってきてしまった。

まず価値観や話が合わないだろうと決めてかかっている。
そうなるにはそうなるだけの、理由はあった。
けれどもシュタイナーの日々の精神修行の一つに、過去に影響されない、というようなのがある。
実際いかに過去の傷ついた出来事、疎外感や孤独感、拒絶された経験。挨拶して無視された時のショックなどがトラウマになり人と接する恐れになってるかというのに気づかされる。

過去から人は学ばねばならぬ、とされているが余計なことばかり持ち越していたのではないかと思う。
息子に対しても、過去の出来事からこうだから、と決めつけているのを辞めて、常に今にいるようにしたいと思っている。

人間が苦手だったころからすると今は、ここで会ったが100年目とばかり
出会うこと自体がすごいことで、どんなに趣味嗜好信条が違おうと一人の人間には百億以上の、いやお金には変えられない価値がある、ということに最近思うに至った。

子供がいる以上、人里離れて独り芸術家として生きる道ではなく、人との関わりの中で豊かに生きることを目指していこうと思う。



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2018年7月10日 (火)

おばあちゃんの知恵袋によると、よもぎを生乾きさせたものを燻すと蚊除けになるらしいので、最近はあちこち生えている元気なよもぎを収穫して玄関前でアグニホートラしている。

アグニホートラ実験の動機の一つは蚊除け、虫除けなのだ。我がアグニホートラ瞑想センター(Laxmiltd.に間借り)は草木に覆われた公園に面して、水路もあるせいか毎年蚊の発生に悩まされていた。
蚊は身体の悪いところを刺してくれるという説により、毎年蚊の襲来と刺されて腫れでもすると憂鬱だったのが心理的には減少したが、
よもぎアグニホートラをして灰をまくことにより、去年よりかは蚊の発生自体減ってきたように思う。

化学肥料が普及する前はかまどの灰が立派な肥料になってたらしいので、花咲じいさんの気持ちで、アグニホートラの銅製ピラミッドに生成される灰を
薔薇やハーブの植え込みにふりまくのも楽しい。植物の育ちもいい。

けれど生乾きのよもぎは燃えが良くないので、インドでゴッソリ仕入れた樟脳を着火剤にしながら燃やすのだ。
最近はさすがに煤で薄汚れるので室内で燃やすのは控えて、もっぱら外でやっている。
1番燃えがいいのはやはりホーリーバジルの木質化したところと花穂である。今年もたくさん苗を作って、今日は8本ばかり畑に地植えしてきた。
なんという充実感だろう。
お金に変えられない豊かさである。

人により人生の青写真、何しに地球に人間として生まれてきたのかは千差万別で、1日中ネットに繋がって仮想のマネーゲームに興じることも、お金儲けとはかけ離れたところで芸術家として生きることもできる。
それぞれがこの生を楽しめばいい。
私自身はアグニりながらこの地球の片隅でささやかな浄化活動に参与しつつ、子供の頃に憧れた美の風景を作っていきたい。







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2018年6月23日 (土)

生きがいは園芸

寝ても覚めても、考えると幸せになるのは園芸のことだ。寝る前、創り出したい風景を絵のように思い浮かべると安眠効果抜群である。
寝る前に考えることは次の日の朝に受け継がれるらしい。
一つ一つの植物の性質や育て方を調べて、自分だけの栽培ノートを作るのも楽しい。実際に役立つことだからやり甲斐がある。

Laxmi ltd.の小さな庭とボランティア活動をしている公園、その公園に隣接した畑が私の持ち場だが、数年前くらいから、それらを見た人から植栽の相談を受けて、人様のお庭に呼ばれる機会も出てきた。
インド風水の智慧も生かしながら、あれをここに植えて、ここはこうしたらどうだろう?など持ち主と考えるのは楽しい。庭がなくとも陽だまりさえあれば、なるべくでっかいコンテナなどで、小さな庭を創り出すことはできる。

自然栽培の決めては何と言ってもアグニホートラだ。無農薬栽培が実現した。アグニホートラがなければ庭づくりは私には不可能だった。
屋内は、煤でカーテンや壁が汚れるので、最近はもっぱら本来どおり屋外の玄関先でやっている。
ホーリーバジルの浄化の煙が庭から公園へと植物の間を流れて行くのは心休まる。

夏至を過ぎて朝のアグニホートラタイムは4時台、1番早い時間だが、目覚ましなしで自然と起きれるようになった。アグニホートラができない時でもプージャーがあるさと平気になってきた。

そして、インド方面からばかりだったが、小学生のころポプリブームからハーブの世界に惹かれたのには、聖女ヒルデガルドのお導きびきだったのではと確信している昨今である。




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2018年6月20日 (水)

エプロンとハンカチ

様々なものを集める人がいる。

毎週購読している
ROADSIDERS' weekly
http://www.roadsiders.com
の今朝の配信記事では、個人的な音源のカセットテープやレコードなどを収集してる人の記事が面白かった。
さぞかしユニークだろう。

収集癖があるのはアーユルヴェーダではカパと言われている。
私も子供の頃は綺麗な石や、ポプリブームの頃はハーブやスパイスなど集めては喜んでいた。

十代の頃は音楽のアナログレコードと古着のTシャツ。
シルクのリボン。
珍しい切手とレターセット、、

そして最近まで
エプロンとハンカチを集めていた。
安物でちょっとレトロなのが好きなんである。

どちらも実用的なのがいいところだが
そう何枚も必要ではないので、タンスの肥やしであまり使うことがなかった。
しかし最近はプージャーを毎日するおかげでエプロンもハンカチもガンガンに出番が出てきたのである。

エプロンのポケットにその日の朝にプージャーで捧げたハンカチに聖水を染み込ませたものをしのばせて、ささっとなんでも拭き掃除するのだ。
主婦たる感じがいい。

あとはよく病人がきてる印象だが、着物のおねまき。
これもレトロなものが二足三文でよくリサイクルショップにある。
昔のはタグも可愛く、大げさな宣伝文句が入ってたりして味わいぶかい。

一生買わなくてもいいくらいあちこちのリサイクルショップやディスカウントショップなどで集めた掘り出しもの。
布製のものというのは元を辿れば植物からであり、やはりマザーディヴァインの贈り物だったのだ。

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2018年5月31日 (木)

子育て1

20代始めにアーユルヴェーダの女性のための妊娠出産の知識を学んだ。
妊娠中の過ごし方、出産時、出産後、子育ての智慧。これは実際に体験したいと思った。

結婚して4年目に子を授かった。妊娠がわかった時は、世界中に(誰も聞きたくはなかろうが)叫びたいくらい嬉しかった。あれから15年の子育てについて、覚えてるうちに振り返って書き留めておこうと思った。

一般の病院のように陣痛促進剤、会陰切開などせずに、昔ながらの自然分娩を体験したいと思った。自宅に出張してくれる助産師さんをネットが普及する前だったので電話帳だったか近所に見つけた。

『分娩台よさようなら』などの名著を読み、一日2-3時間は歩いた。
しかし、予定日1週間たっても兆候がないので高尾山薬王院まで夫と九州から来てた姉と甥っ子とお参りに行った。すると次の日の朝に出産の兆候が来た。
徐々にフルマラソン並みの体力を使う陣痛になっていったが、風呂場に這うようにして行って、水中に入ると痛みがかなり軽減されるのを実感した。
出た瞬間は今思うとまさに全身が弾けてぶっ飛ぶような大きなオーガズムだったが、30時間以上も陣痛でめためたにされ、ゼーハー精魂尽き果てた。
助産師さんからはまだ若いのだから二人目三人目もいけるのでは、などと言ってくれたが、こんなに大変なら出産はもうこの1回こっきりでいいやと思ったものである。
シュポーンと水中を飛び出てきた赤ちゃんを手にすると、こんな可愛いのがお腹に入ってたのか〜!と驚愕した。
今思うとオキシトシンホルモン大放出だっただろう。その夜中から早速の授乳に手こずり、布オムツのセットの仕方もわかぬまま寝れない睡眠不足な子育てに突入した。



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2018年5月 9日 (水)

マザーディヴァイン・プージャー

プージャではなくプージャーなんだそうである(伊藤武先生のブログ記事より)
ヨガではなくヨーガ。ヨギニではなくヨーギニー。アサナではなくアーサナ。アナンダではなくアーナンダ、、
伸ばすか伸ばさないかで意味が違ってきてしまうのがサンスクリット語。

英語を介して靴の上から痒いところを掻くようなのではなく、だれしもサンスクリット語からヨーガを学べられる素晴らしい時代が到来している。
(興味ある方は伊藤武先生主催のYaj サンスクリット語講座で検索 )

それはさておき、、
いつから毎朝プージャーをやり始めたんだっけ?と記憶を辿ったら昨年末、親知らずが痛くなり、近所の歯医者で速攻で抜きます、と宣告されたのに慄き、無理矢理抜かなくても済むように、神頼みで始めたのを思い出した。

人は心身の苦痛に会い、ピンチにたつと藁をも掴む思いになるものだ。(親知らずくらいで大げさな、、と思われるのは承知だが)

基本的には日の出のアグニホートラ後にやるのだが、朝行うことで一日じゅうマザーディヴァインに守られてると実感できる。

朝できなかった時は一日の報告兼ねて夜にやる。
親知らず以来5ヶ月、ほぼ毎朝プージャーをやっていることになる。

それまでは仕事上の義務と責任感から、あくまで製品の浄化と依頼者へのご祈願のために、たまに納品時にやっていたのだった。
しかし他でもない自分の為に、積極的に恩寵を要請するのだ。
以前、アグニホートラができるように、日の出前に起きれるよう、これまた藁にもすがる思いでディークシャしまくって実現した経緯がある。この時初めて自分にやったのだった。
己の必死なる思いが1番わかるのは当然自分なのだ。人に頼むより自分でやったほうが手っ取り早く、お金もかからない。
必要なのは続ける熱意のみだ。

実際にやってみると、明らかによい影響がある。親知らずの痛みと恐怖以外にも生きていれば、生きるのが嫌になるようなことはやってくる。
となるとこれはやらなきゃ損だと思うようになった。
人に言ったらバカバカしいと笑われるくらい単純なこと、ヨーガでも何でも秘教と呼ばれるものは、笑われたりバカにされたりするのを防ぐために内密に秘儀として隠してるんじゃなかろうか。

それにしても幸福は心の持ちようだ。
少しでも楽に生きれるのならプラシーボ効果だっていい。
痛みも大げさに恐怖におののくのと、これも恩寵で軽減されてるのだ、と思うのとでは雲泥の差だ。

続けている理由としては
一つは願望実現やご利益があること。
二つは心の平安を得られること。
三つは祭壇のしつらえなどで芸術心?が生かせること。
四つはヨーガのアーサナもプージャの中でやってしまえること。
五つは 毎日やってると、プージャーにおいて自分でも予測つかない思いつきやひらめきが出て、プージャーが日々改良されていくのが面白いところ。
六つめはこれまで得た知識や学んだことをプージャーのプロセスで試したりより深められること。
7つめは使った聖水の二次利用?でついでに掃除ができること。朝日に反射されながら窓拭きなどしてると主婦である喜びを感じてしまう。
8つめは、日々バージョンしてるおかげで、仕事上のプージャーがスムーズにできることだ。
育てた薔薇をしつらえ、生き物のように祭壇が日々変化するのが面白い。
供え物のお花を採りながら庭仕事もやりつつ、宝石浄化などの仕事ももちろん合わせてできるのは言うまでもなく。

実物の母親が他界してるからこそ、マザーディヴァインとの交流が私には必要だったのだと思う。
もしこれが義務や修行で毎日やれ、となったら絶対嫌だしやらない。アグニホートラしかり、自主的にやってこそ楽しいのだ。
この世において問題の多い、生きづらい自分が、よくプージャーもしないでこれまで生きてきたなと思うくらいだ。30年近く前、癌で母親が急死して以来、母なるものとの交流に飢えていたことが分かった。

薔薇や宝石自体がマザーアースが生み出した最高の芸術品であるが、それらをプージャーの中で讃えることは私の芸術活動であり、母親との交流であり、ロボットではなく人間だからこそできる、満足感と幸福感を味わえる行為だと思う。




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2018年4月16日 (月)

分別と不分別

分別とは
https://dictionary.goo.ne.jp/jn/

>道理をよくわきまえていること。また、物事の善悪・損得などをよく考えること。「分別のないことを言う」「よく分別して態度を決める」

とあるが、仏教で言う「分別」は上にあるような一般的な良い意味合いとは全く反対で迷いと苦悩の根源なのだそうだ。

しかしながら思考は必ず「善悪」「美醜」「甲乙」「好き嫌い」といった、相対的、比較的な判断(ジャッジ)をする。

私たちは常にあれは良い悪いと分別しながら生きている。
こっちの店の方があっちの店より安くて新鮮な物を売っている、など日常生活においては、人様に迷惑をかけないためにもゴミの分別もしかりでマインドをきちんと働かせなければならない。

一方、仏教で言う「無分別」は、真の知恵で、相対的な見方から離れたところでの、覚りの知恵を意味しているんだそうだ。

「あるがまま」を「あるがまま」に分別せずに、、、などと言っても心の働きの性質上、分別しない、なんてことはそもそも人間にはできない。
できないことを目指すからまた苦しくなっては本末転倒だ。

人間は自然に分別するのが本性なのである。いい悪いを判断しなくて許されハッピーなのは赤ちゃんだけだ。
子供はこの世で生きるために親に社会に分別を教えられる。
そうでなければ犯罪者にだってなれるだろう。

私たち人間にできることは、あるがまま、などできないことを目指すのではなく、油断なく【分別している心の働き】に気づいて、それすら受け入れることだ、とブッダは言いたかったのではないだろうか。それなら誰だってできる。

内と外では正反対に使うべき分別を理解していないと、外側では無分別にO教団のごとく殺人をもおかしても正当し、内側では分別して葛藤しまくる、というとんでもないことになる。

自分が苦悩するだけなら、その苦しみから逃れたい、と思うに至れる。
常に泉のごとく湧き出てくる葛藤と言う名のストレスを解消するだけでは人生はもったいない。
と私が思うようになったのも、子供の時から不分別に生きて葛藤しまくりだったおかげ?かもしれない。

みんながやるから自分もやる、というのはできなかった。
ただ単に年取った人を意味もなく形だけ敬う、というのはおかしいと思ったので、表裏ある態度で平静を装いつつ裏では悪口、ということもできず、学校の先生や大人からはことごとく目の敵にされてきた。

少数でも理解してくれる友人がいたのと、中学生のときから沢山アルバイトをして色んな職場で働いてきて、中には面白がってくれる大人がごく少数いたのは助かった。

人間は悟っていない限り、だれしも程度の差はあれ無自覚に外側では不分別、内側ではジャッジしまくってる。

それが苦悩の根源になっているのはブッダの言う通り間違いない。
そんな生き地獄から脱してハッピーに生きるために、外側の分別と内側の不分別を一生かけて開発していきたいと改めて思う。












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2018年4月10日 (火)

好きなことを仕事にしようとはよく聞く言葉だが、作家の中村うさぎさんは、好きなことではなく、得意なことでお金を稼ぎ仕事にすべきと何かで言っていた。
文章を書くのは子供の頃から得意だったけど、取り立てて好きなわけではないそうだ。得意なことだからといって、それをするのが人一倍好きとは限らない。
私も前回書いたが、宝石の仕事を二十年以上やってきて、所謂宝石デザイナーと名乗るのも何か違う気もするが、不思議なくらい揺るぎない信頼がある数少ない得意なことであるのは間違いない。
しかし、本当に好きでお金にならなくともやりたい、それを人様に伝えられるとおもうだけで、胸踊りワクワクしてくるし、苦手なこと、人前に立つことなどのこだわりを超えられるのは、プージャやディークシャ、ヨーガなのである。
これらはビジネスとは相容れないが、単にモノだけ売って金銭は得られても心の喜びと充実感はない。
宝石は美と芸術、エネルギーとヒーリングパワー、アーユルヴェーダにジョーティッシュにヨーガにヒルデガルド的な宝石療法と物質的な、精神的なターミナルになる。
それらと関連づけられるのがいいところだ。
好きで自分のためにもやりたいことを本業ともっと結びつけていけたらと思う。

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2018年4月 8日 (日)

宝石デザイナー

親孝行したいときには親はなし、というが、文章もまた書きたいときに目が痛くてディスプレイを見るのが辛い。
有限の時間と体でできることはできるうちにやらないとなと思う。

このブログは最初は、ラクシュミージュエリーの宣伝で始めたので、初期の投稿は納品した宝石の指輪やネックレスの画像ばかりだった。
文章は自分の言葉で書こうにもできなかった。
ジョーティッシュ・ジュエリーという
最高レベルに美しい高尚なものと自分との間に隔たりがありすぎた。
じぶんより20も30も上の顧客に向かって何が書けただろう。とはいえども年齢ばかりではなく何年経ってもそれは変わらなかった。
いつか自分の言葉で何か書けるようになりたいとは思っていた。

私のジュエリーデザイナーとしての仕事は、絶対音感ならぬ絶対美感?のような、精妙すぎて直感に近い、普段の生活では全く役に立たない微妙な感覚あっての賜物だ。
宝石の品質や、加工したジュエリーの1ミリもの狂いがなぜか一目で直感的に分かり、専門家がルーペでみても分からないレベルなのだが、それを修正できるのは、この仕事をするにあたって天から与えられたものだと思う。

そういった見た目的な点にはおいては自信もって依頼者に納品することができたから、ジュエリーの仕事は得意というか天職なんだと思う。

以前、ジュエリーデザインの勉強も仕事に必要かと思い、2年ほど専門学校に通った。
デザインの基礎的なことは、加工を職人さんに伝える上でも必要だが、ほとんどジョーティッシュ用には一般的なデザインは適用できないしあまり意味がない。

石裏は肌に触れるように、その分頑丈でシンプルな作りが優先で一生身につけることのできるものだ。
それでもお客様の希望で結構凝った華美なデザインのものも納品してきたが、私が学ばねばならないことは他にも山ほどあった。

ヨーガ通してチャクラと宝石の関連や、浄化のためのプージャー、宝石とコミュニケーションしたり富の意識にチューニング合わせる技法、アーユルヴェーダの古典や古今東西の宝石学などの方がよっぽど必要になってくる。
ジョーティッシュの宝石処方についても基礎的なことは理解しておくのも当然だ。

以前、ルビーの指輪を納品したある男性顧客から、健康器具のようですねと言われたことがある。
一文字に並んだ最高級のルビーを金に埋め込んだシンプルなデザイン。
飾り気のない無骨さを揶揄した意味にも取れるが、当たらずとも遠からず。
まさに宝石は健康器具であり、普段持ち歩き、どこでも使えるようにするために指輪やネックレスとして持ち歩き無くさないように身につけるのだ。

それを装身具としてお洒落で身につけることもできるわけだが、(一般のジュエリーというのはこれが目的)身につけることで結果的に、その人を外見だけでなく深いところで癒し、引き立て、美しく見せるという方がしっくりくる。

お金同様、宝石も富の象徴とされるが
肉体はいつか滅び、財だってあの世にはもっていけない。物質的な所だけでは意味がなく無駄なことに思えてしまう。
こんな私がジュエリーデザイナーを名乗るのは、何か違うような気もするのだが、本業は紛れもなくそうなのである。
自己紹介するときも、なんと自分の仕事を説明したものかと口ごもってしまい、インド占星術の〜などと言おうものなら怪しまれるのがオチなのだ。
逆にインドに詳しい人だと、実際にインドでは詐欺が横行してるのだろうが、宝石というと金儲けでしょ、などと面と向かって言われたこともこれまで2回ある。
毅然と無礼には無礼で返せばよかったと未だに思う。

その悔しさはやる気に火をつける着火剤や研磨して石を輝かせるヤスリの役目にしてきた。
ハードコアにシンプルなデザインばかりだが、宝石療法の観点からはその目的に真っ当で、経済的でもあり、何より美しい。石のパワーが増している。
そんな画像をインスタグラムに投稿している。
https://www.instagram.com/laxmi_jewelryhttps://www.instagram.com/laxmi_jewelry































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